
三好家を少し切り崩し、北条も崩しかけたこの時。
1559年、畠山家はある戦略を思いつく――【1559年12月】
北条家と同盟を結ぶ。
この後、翌2月まで小寺ら丹波~東播磨の小勢力を従属、臣従させた。
【1560年2月】
武田と北条が不戦破棄したのを見、武田家との同盟を破棄。
【1560年4月】

土岐斎藤家が鞍替えしてきた。635万石。

この頃、武田家は7か国に勢力を広げていたが、美濃は斎藤家から真っ先に寝返った土岐斎藤家が間接的に支配していた。
そして、その土岐斎藤家はまたも真っ先に寝返り、一気に美濃での勢力を失ってしまった。
【1560年6月】

この頃、大規模な独立大名は10個を残すのみとなっていた。

これが一昔前の16強だった頃の構図。
うち、斎藤・佐竹・蘆名・南部・葛西はうちが打ち崩した(斎藤は武田、佐竹は北条の協力もあったが)。よって、他家が崩壊させた大名家は今川のみである。
なお、10強時代もそう長くは続かなかった。
織田家が能登畠山家に従属志願したのだ。ついで、六角家も従属した。
これで、8家まで絞り込まれた。
【今後の方針】
武田を切り崩す。
そして、北条を切り崩す。
あと、織田は当面自治させておきます。
続く
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